Masuk***
研究所に戻った澪は、無表情のまま自席に腰を下ろした。静まり返ったオフィスに、キーボードの音だけが響いている。
「あれ、宮坂さん? 半休じゃなかったんですか?」
「ええ……予定が変わってしまって」
無理に微笑むと、頰が引きつるのが自分でもわかった。
パソコンを立ち上げ、書類の入力作業を始める。いつもなら苦にならない作業が、今日は指が思うように動かない。
五千万円。白石琴葉。責任上の存在。
「好きじゃない」――智也の声が、頭の中で何度もリピートされる。
(……考えないで。今は仕事だけに集中しないと――)
気づけば窓の外は、夕暮れに染まっていた。机の上に置いたスマートフォンが震える。画面に表示された名前を見た瞬間、胸が痛んだ。
(――智也さんからだ)
少し迷ってから、通話ボタンを押す。
『今、ビルの下に着いた』
いつもと変わらない穏やかな声だった。ほんの数時間前までなら、その声を聞くだけで安心できたのに――。
「ごめんなさい……今日は残業するから」
『残業? 君が?』
智也の声に、わずかな驚きが混じる。
『ただの事務職なのに、そんなに残る仕事なんてあるのか?』
ちくり、と胸が痛んだ。智也はすぐに自分の言葉に気づいたらしい。
『……悪い。変な言い方になった』
少し困ったように笑う気配がした。
『最近疲れてるんだ。……そうだ、ちょっと降りておいで。サプライズがある』
断りきれず、澪は一階へ降りた。
ロータリーに停まる見慣れた車。助手席の窓が開き、智也がいつもの笑顔を向ける。
「お疲れ。乗って」
言われるままシートに座ると、智也は機嫌良く話し始めた。
「前に、迎えに来なくても自分で運転できるって言ってたよな」
「……うん」
「だから、この車を君に譲ろうと思う」
澪は目を瞬かせた。
「え……?」
「新しく車を買ったんだ。取引先との付き合いも増えてきたし、それなりの車じゃないと格好がつかないからさ」
スマホを取り出し、黒く艶やかな高級車の写真を見せる。ナンバープレートが映る寸前で、なぜか画面は閉じられた。
「来週納車なんだ。結構いいサプライズだろ?」
誇らしげな横顔に、澪は静かに訊ねた。
「……この車、結婚記念日のプレゼントってこと?」
智也は少し照れくさそうに笑った。
「まあ、そんなところかな」
澪は窓の外に視線を逸らした。数時間前なら、素直に喜べたのかもしれない。でも今は、ただ胸が苦しい。
「迎えに来なくてもいいってこと……だよね」
小さく漏らした言葉に、智也の表情がわずかに変わった。
「そんなつもりじゃない。ただ、君が運転できるって言うから、便利になると思っただけだ」
気まずい沈黙が車内に広がる。
「……今日は付き合いがあるから、先に行くよ。帰りは気をつけて」
そう言い残して、智也は気まずそうに車を降りた。
一人になった車内。澪はハンドルにそっと手を置いた。その冷たさだけが、今の自分の心によく似ている気がした。
智也が去ったあとも、澪はしばらく車の中から動けなかった。ハンドルに置いた手には、まだ冷たい感触が残っている。
記念日のプレゼント――ほんの数時間前まで、それだけで胸が弾んでいたはずなのに。
「……帰らなきゃ」
小さく呟き、エンジンをかける。だけど、正直なところ家へ帰りたくはなかった。けれど、ほかに行く場所も思いつかない。
しばらくすると、同じ部署の女性職員が駐車場へやって来た。
「あっ、宮坂さん。駅まで送ってもらってもいいですか?」
「もちろん」
できるだけ自然に微笑む。こんな顔で一人になったら、余計なことばかり考えてしまいそうだった。誰かが隣にいてくれるほうが、少しだけ気が紛れる。
車はゆっくりと研究所をあとにした。夕暮れの街には仕事帰りの車が連なっている。赤信号で停車した、そのときだった。
「わぁ……」
助手席の同僚が、思わず声を上げた。澪もつられて視線を前へ向ける。隣のビルの地下駐車場から、一台の黒い高級車がゆっくりと姿を現した。
艶やかなボディが、夕日を反射している。それは、智也が見せてくれた写真と同じ車種だった。
「あの車、すごいですね」
「何が?」
「最近、発売されたばかりの車なんですよ」
「そうなの?」
「ええ。うちの主人が欲しがってて」
澪は何気なく車を見送る。運転席には若い女性が座っていた。サングラスを掛けていて、顔まではよく見えない。
高級車は澪たちの前を横切るように右折し、流れるように走り去っていく。
一瞬だけ、横顔が見えた。
「……え?」
見覚えがあった。どこかで見たことのある顔――思い出そうとしたその瞬間、高級車は前を走る大型トラックの陰へ消えてしまう。
「あっ」
同僚が思わず身を乗り出した。
「ナンバー、すごかったですね」
「ナンバー?」
「はい。"0002"でした」
その数字を聞いて、澪の鼓動が大きく跳ねる。
さっき、智也が見せた新車の写真。画面が閉じられる、ほんの一瞬だけ見えたナンバーが――0001。
そして今、目の前を走り去った車は0002。
偶然とは思えなかった。智也は言っていた。『最近は付き合いが多くて、新しい車を買った』と。
けれど、あの女性は――。
(まさか……)
大学時代の研究室。柔らかな笑顔。振込明細に書かれていた名前――白石琴葉。
澪はハンドルを握る手に力を込めた。胸の奥が締めつけられる。さっきまで必死に否定していた思いが、少しずつ形になっていく。
智也は、本当に白石琴葉のことが好きなのだ。あの新車も、きっと彼女のために――。
その事実だけが、どうしようもなく胸を刺した。
助手席の同僚は、そんな澪の異変に気づいていない。
「宮坂さん、大丈夫ですか?」
「……え?」
「信号、青ですよ」
「あ……ごめんなさい」
慌ててアクセルを踏み込む。車はゆっくりと前へ進み始めた。街の明かりが、一つ、また一つと灯っていく。
ぼんやりと滲む景色を見つめながら、澪は心の中で同じ言葉を繰り返していた。
妻の私には中古車を。彼女には新車を――それが、智也の出した答えなのだと。
新薬の入札まで、残り一ヶ月。研究所の空気は、日を追うごとに張り詰めていた。 白い壁に囲まれた実験フロアは、天井の蛍光灯が冷たい青白い光を満遍なく投げ、ガラスのパーティション越しに培養器の数字が規則正しく点滅している。 データ検証、最終調整、報告書の精査。どれもが気の抜けない作業ばかりだった。 キーボードを叩く音が各所から響き、機械の低い駆動音が背景に流れ続けている。澪はその中心で、淡々と業務をこなしている。 事務職を中断して白衣の袖を通し、モニターに映し出された数値を確認する。一つひとつのデータに目を通し、わずかな違和感も見逃さない。 感情を挟む余地など、今の自分にはなかった。指先がマウスを正確に動かし、過去のログと現在の数値を頭の中で照合していく。 同時に、もう一つの準備も着実に進めている。 弁護士とのやり取りと証拠の整理。それと、財産分与に向けた資料作成――帰宅後、智也がいない時間を見計らって、少しずつ形にしていく。 リビングのテーブルランプの黄色い光だけが円を描く静かな夜に、ファイルを開いて紙を一枚ずつ並べる。 誰にも気づかれないように、静かに確実に仕事と離婚準備。その両方を並行して進められる自分が、少しだけ遠く感じられた。 以前の自分なら、夫のことだけで頭がいっぱいになっていたはずなのに、今は違う。 自分の未来を、自分の手で決めようとしている。*** 東条悠臣との連絡は、以前より増えていた。 研究データの確認。次のフェーズに向けた意見交換。研究環境についての情報共有――どれも業務上の範囲を出ない。 メールの画面に表示される文字は簡潔で、余計な装飾がない。それでも悠臣は澪の判断を尊重し、余計な私情を挟まなかった。「必要な支援があれば、遠慮なく言ってください。ただし、あなたの判断を最優先します」 その言葉が、澪にとっては何よりありがたかった。 仕事上の最大の理解者。そう位置づけてしまう自分に、違和感はなかった。恋愛でも、依存でもない。 ただ、研究者として真っ直ぐに向き合ってくれる存在。それだけで十分だった。*** 一方、智也は初めて、はっきりとした焦りを自覚していた。 家に帰っても、澪の笑顔はない。相変わらず会話は最小限。結婚指輪は、もう二度とつけられていない。 どんなに優しく接しても、澪との距離は縮まらなかった
仕事から帰宅して、智也は自宅の書斎でパソコンの画面を睨んでいた。 部屋はほとんど灯りを落とし、デスクランプの光だけが円を描いて机と壁を照らしている。 検索窓に文字を打ち込む――宮坂澪 研究所。 キーボードを叩く音が静かな部屋に小さく響き、画面に次々と検索結果が並ぶ。表示された検索結果を、上から順に確認していく。 所属する研究機関。一般向けに公開されている研究分野の紹介。研究所が発表しているニュース――どれも、表面的な情報ばかりだった。 画面をスクロールする指先が微かに震え、ランプの光がキーボードのキーに影を落としている。「……名前が出てこないな」 智也は眉を寄せた。額に薄い皺が寄り、椅子の背もたれに体を預け直す。 さらに検索条件を変えてみる。けれど、結果は大きく変わらなかった。 妻の名前を検索しているはずなのに、出てくるのは澪が所属している研究所の情報ばかり。(――いったい、どういうことだ?) これまで智也は、澪の仕事に興味を持ったことなどなかった。 研究所で働いている、ただそれだけ――自分の会社のように、経営に関わる仕事をしているわけでもない。ましてや、研究者として何か大きな成果を上げているなどとは考えもしなかった。 だから白衣を着ることもない澪を見て、勝手に事務職のような仕事だと思い込んでいた。 実際は、どんな研究をしているのか。どんな立場にいるのか。どれほどの責任を背負っているのか、聞いたことすらない。 なのに今、東条悠臣が澪の働く研究所へ支援を申し出ている。その事実だけが、智也の中に重く残っていた。「俺は……」 智也は、画面を見つめたまま呟く。声が静かな部屋に溶け、画面の光が彼の瞳に映る。 「澪の何を知っていたんだ」 結婚して三年。同じ家で暮らし、同じ食卓を囲んできた。 それなのに妻が毎日どんな場所で、何をしているのか。自分は何も知らなかった。 いや、知らなかったのではない。知ろうとしなかったのだ。その事実に気づいた瞬間、胸の奥に妙な重さが広がった。 後悔――なのだろうか。けれど、まだそれを認めることはできない。自分が悪かったと素直に認めるほど、智也の中の何かが崩れ始めているわけではなかった。 ただ、これまで当たり前だと思っていた妻への認識が、少しずつ崩れている。そのことが、落ち着かなかった。 椅子が軋む小
研究所の会議室に、東条悠臣の姿があった。広い部屋は午前の陽光がブラインドの隙間から、細い光の筋を落としている。 神代を含む幹部陣が揃う中、悠臣は静かに資料を広げる。 黒いスーツの生地が陽光を柔らかく受け止め、切れ長の目が資料の文字を冷静に追っている。「東条グループとして、正式に支援を申し出ます」 告げられた言葉に場の空気が、わずかに引き締まった。椅子が軋む小さな音や、誰かが息をのむ気配が広がる。「今回の抗がん剤プロジェクトは、社会的意義が大変大きい。設備の増強と、研究環境の安定化に協力したいと考えています」 具体的な内容は、最新分析装置の導入支援と、共同研究枠の拡充。どちらも研究所全体の研究基盤を強化するものであり、宮坂澪個人に利益を与えるものではない。 提示された金額と規模も、研究所にとって大きな後押しになる提案だった。 神代は資料を確認すると、深く頷いた。眼鏡の位置を直し、指先でページをめくる仕草が慎重だった。「ありがたい申し出だ。前向きに検討させてもらう」「よろしくお願いします」 悠臣は静かに頭を下げた。その動作は控えめでありながら、確かな意志を感じさせるものだった。 会議は、その後いくつかの確認事項を残して終了した。*** 会議室を出たところで、澪は悠臣の姿を見つけた。白衣の袖を整え、澪は足を止める。「東条社長」 呼びかけると、悠臣が振り返る。切れ長の目が穏やかに澪を捉えた。「宮坂主任」 澪は背筋を伸ばしてから、深く頭を下げた。廊下の蛍光灯が彼女の横顔を青白く照らし、白衣の襟元がわずかに揺れる。「本当に、ありがとうございます」「礼を言われる筋合いのものではありません」「それでも……」 澪は一度言葉を切った。そして、慎重に言葉を選ぶ。指先が白衣の裾を軽く握り、視線を逸らさずに続ける。「特別扱いは困ります。私個人への便宜として受け取られるのは、本意ではありません」 やんわりとした拒否する。けれど、その意志は明確だった。 自分だけが特別に扱われることで、周囲から余計な誤解を受けることは避けたい。 何より研究者としての評価を、誰かの後ろ盾によって得たものだと思われたくなかった。 そんな澪の考えを、悠臣はすぐに理解したようだった。「もちろんです」 悠臣は穏やかに答えた。声は低く、しかしはっきりと廊下に響く。
研究所の総務部に一通の匿名メールが届いたのは、朝のことだった。 件名には「内部告発」とある。そこに記されていたのは、宮坂澪に関する複数の告発だった。 ――実験データの改ざんに関与しているのではないか。 ――特定の企業と不適切な関係を持っている。 ――主任という立場を利用し、私的な利益を得ている可能性がある。 いずれも、研究者としての信用を根底から揺るがしかねない内容だった。具体的な証拠は添付されていない。 それでも、新薬開発の入札を間近に控えたこの時期では、単なる悪戯として片づけるわけにはいかなかった。 総務から連絡を受けた神代は、重い表情で澪を呼び出した。「この内容を確認してほしい」 差し出されたタブレットの画面を見て、澪は静かに息を吐いた。驚きよりも先に、疲労感が押し寄せる。 またか――。 そんな言葉が、胸の奥に浮かんだ。「身に覚えはありません」「分かっている」 神代は即座に答えた。「だが、研究所として正式に調査する必要がある。入札を控えている以上、疑惑を残すわけにはいかない」「構いません」 澪は画面から目を離した。「必要なものは、すべて提出します」「助かる」 それからの数日間――澪は通常業務をこなしながら、過去の実験ログ、試薬の管理記録、データの更新履歴、外部とのやり取りに至るまで、求められた資料を一つずつ提出していった。 曖昧な記憶に頼ることはしない。 記録を確認して日時を照合し、数字を一つずつ追っていく。研究者として、当たり前のことを当たり前に積み重ねる。 その姿勢は、普段と何も変わらなかった。 そして、調査の中で重要な意味を持ったのが、先日の培養データ異常に関する記録だった。 急激に数値が変動した際、澪は原因を特定し、使用していた試薬のロットまで遡って確認している。 その判断から対応完了までの過程は、実験ログに時刻とともに残されていた。 データを書き換えたのなら、これほど一貫した記録が残るはずがない。むしろ、そのログは澪が異常をいち早く発見し、プロジェクトへの影響を最小限に抑えたことを示していた。 さらに、他の実験データや試薬管理記録との照合でも、不正を示す痕跡は見つからなかった。 調査開始から数日。神代は研究室に集まった研究員たちの前で、はっきりと告げた。「調査の結果、宮坂主任によるデータ
智也の態度が、明らかに変わっていた。 以前ならほとんど顔を合わせることのなかった朝食の席で、智也は澪の様子を伺うように視線を向け、口を開く。「今日は早く帰れる。何か食べたいものがあるか?」「疲れてないか? 無理するなよ」 顔を合わせるたびに、決して口にしなかったような言葉を澪にかける。 それだけじゃなく、食事の時間を合わせようとする。帰宅時間を早める。澪が疲れているように見えれば、積極的に声をかける。 どれも、少し前の智也なら考えもしなかったことだった。 妻を気に掛ける智也に対し、澪の反応は驚くほど薄かった。「大丈夫」「もう食べたから」「ありがとう」 短い言葉を返しては、それ以上の会話を続けようとはしない。 当然、笑顔もない。智也を気遣う様子もない。必要なことだけを告げると、自分の部屋へさっさと戻っていく。 ドアが閉まる音がリビングに乾いて響き、彼女の足音が廊下に消えていく。 その背中を、智也は何度も目で追った。 ソファに深く座り、閉じられたドアを見つめる。「……澪」 呼び止めようとして、やめる。 何を言えばいいのか、自分でも分からなかった。ただ、以前とは何かが違う。それだけは、はっきりと分かる。 部屋の空気が重く沈み、時計の秒針が異常なほど大きく聞こえる。ソファに座ったまま、智也は閉じられたドアを見つめた。(まだ怒っているのか……) 五千万円の送金について問いただされた夜から、澪との間にある距離が、明らかに感じられるようになった。 あのとき見た、澪の静かな目。責めるわけでもなく、泣くわけでもなく。ただ、自分を見つめていた。 あの視線が、なぜか頭から離れない。 テーブルの上には何も残っておらず、ランプの黄色い光だけが円を描いて何もない空間を照らし続けている。智也は小さく息を吐いた。 吐いた息が、ひんやりとした空気に溶けていく。(――きっと俺が変わればいい) そうすれば、いつか澪も元に戻る。以前のように笑って自分を頼って、妻として自分の隣にいてくれる。 そう信じていた。 その考えが、どれほど自分勝手なものなのか。智也は、まだ気づいていなかった。*** 一方――琴葉は、智也からの連絡が減っていることに気づいていた。 以前なら、夜遅くでも近況を聞いてくるメッセージが届いた。会う約束も、智也のほうから持ちか
弁護士事務所の個室は、静かで落ち着いた空気に包まれていた。 厚いカーペットが足音を吸い込み、壁際の間接照明が淡い琥珀色の光を落としている。 テーブルの上には、澪が少しずつ集めてきた資料が並んでいる。 通帳のコピーと振込記録。過去のメッセージの写し。そして――三年前の日付が印字された、一枚の銀行振込受付票。 白い紙が照明を受けて鈍く光り、角がわずかに折れた跡が、長い時間を経てきたことを物語っていた。 担当弁護士は眼鏡の奥でそれを見つめ、銀行振込受付表を取り上げる。指先で丁寧に縁を押さえ、文字をゆっくりと追いながら、静かに口を開く。「この五千万円の送金についてです」 送り主は御子柴智也。受取人は白石琴葉――金額は五千万円。 紙の上に印字された数字が、部屋の静けさの中で異様なほど大きく感じられた。「離婚調停や財産分与の場では、この送金理由も重要になります。贈与なのか、貸付なのか。それとも、別の関係性を示すものなのか」「……はい」 澪は静かに頷いた。椅子の背もたれに軽く体を預け、両手を膝の上で重ねる。「本人に確認します」 弁護士は資料を閉じると、澪をまっすぐ見た。眼鏡の奥の視線は冷静なのに、不思議と優しさを含んでいた。「感情的に詰め寄る必要はありません。ただ、事実を確認するだけで十分です」「分かりました」 澪は短く答えた。 もう、感情に任せて何かをぶつけるつもりはない。知りたいのは、事実だけだった。 部屋の空気がわずかに動き、ブラインドが夜の光を細く切り取っている。*** 弁護士事務所を出ると、夜の冷たい風が頬を撫でた。 高層ビルの谷間を吹き抜ける風は、昼間の熱をすっかり奪い、アスファルトの表面を冷たく湿らせている。 澪は不意に足を止め、小さく息を吐く。吐いた息が白い煙となって、夜気の中にすぐに溶けていった。 これまでなら、知ることが怖かった。事実を知れば傷つく。知れば、今まで信じてきたものが壊れてしまう。そう思っていた。 けれど――もう違う。どれだけ残酷な真実でも、知らなければ前には進めない。「大丈夫。私はもう逃げない……」 小さく呟き、澪は歩き出した。ヒールの音が冷たい石畳に規則正しく響き、街灯の光が彼女の横顔を優しく照らす。 知るべきことは、すべて知るその先にある未来を自分で選ぶために。*** その夜。智也







