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第一章 記念日のプレゼント2

Autor: 相沢蒼依
last update Fecha de publicación: 2026-08-14 11:54:48

***

 研究所に戻った澪は、無表情のまま自席に腰を下ろした。静まり返ったオフィスに、キーボードの音だけが響いている。

「あれ、宮坂さん? 半休じゃなかったんですか?」

「ええ……予定が変わってしまって」

 無理に微笑むと、頰が引きつるのが自分でもわかった。

 パソコンを立ち上げ、書類の入力作業を始める。いつもなら苦にならない作業が、今日は指が思うように動かない。

 五千万円。白石琴葉。責任上の存在。

「好きじゃない」――智也の声が、頭の中で何度もリピートされる。

(……考えないで。今は仕事だけに集中しないと――)

 気づけば窓の外は、夕暮れに染まっていた。机の上に置いたスマートフォンが震える。画面に表示された名前を見た瞬間、胸が痛んだ。

(――智也さんからだ)

 少し迷ってから、通話ボタンを押す。

『今、ビルの下に着いた』

 いつもと変わらない穏やかな声だった。ほんの数時間前までなら、その声を聞くだけで安心できたのに――。

「ごめんなさい……今日は残業するから」

『残業? 君が?』

 智也の声に、わずかな驚きが混じる。

『ただの事務職なのに、そんなに残る仕事なんてあるのか?』

 ちくり、と胸が痛んだ。智也はすぐに自分の言葉に気づいたらしい。

『……悪い。変な言い方になった』

 少し困ったように笑う気配がした。

『最近疲れてるんだ。……そうだ、ちょっと降りておいで。サプライズがある』

 断りきれず、澪は一階へ降りた。

 ロータリーに停まる見慣れた車。助手席の窓が開き、智也がいつもの笑顔を向ける。

「お疲れ。乗って」

 言われるままシートに座ると、智也は機嫌良く話し始めた。

「前に、迎えに来なくても自分で運転できるって言ってたよな」

「……うん」

「だから、この車を君に譲ろうと思う」

 澪は目を瞬かせた。

「え……?」

「新しく車を買ったんだ。取引先との付き合いも増えてきたし、それなりの車じゃないと格好がつかないからさ」

 スマホを取り出し、黒く艶やかな高級車の写真を見せる。ナンバープレートが映る寸前で、なぜか画面は閉じられた。

「来週納車なんだ。結構いいサプライズだろ?」

 誇らしげな横顔に、澪は静かに訊ねた。

「……この車、結婚記念日のプレゼントってこと?」

 智也は少し照れくさそうに笑った。

「まあ、そんなところかな」

 澪は窓の外に視線を逸らした。数時間前なら、素直に喜べたのかもしれない。でも今は、ただ胸が苦しい。

「迎えに来なくてもいいってこと……だよね」

 小さく漏らした言葉に、智也の表情がわずかに変わった。

「そんなつもりじゃない。ただ、君が運転できるって言うから、便利になると思っただけだ」

 気まずい沈黙が車内に広がる。

「……今日は付き合いがあるから、先に行くよ。帰りは気をつけて」

 そう言い残して、智也は気まずそうに車を降りた。

 一人になった車内。澪はハンドルにそっと手を置いた。その冷たさだけが、今の自分の心によく似ている気がした。

 智也が去ったあとも、澪はしばらく車の中から動けなかった。ハンドルに置いた手には、まだ冷たい感触が残っている。

 記念日のプレゼント――ほんの数時間前まで、それだけで胸が弾んでいたはずなのに。

「……帰らなきゃ」

 小さく呟き、エンジンをかける。だけど、正直なところ家へ帰りたくはなかった。けれど、ほかに行く場所も思いつかない。

 しばらくすると、同じ部署の女性職員が駐車場へやって来た。

「あっ、宮坂さん。駅まで送ってもらってもいいですか?」

「もちろん」

 できるだけ自然に微笑む。こんな顔で一人になったら、余計なことばかり考えてしまいそうだった。誰かが隣にいてくれるほうが、少しだけ気が紛れる。

 車はゆっくりと研究所をあとにした。夕暮れの街には仕事帰りの車が連なっている。赤信号で停車した、そのときだった。

「わぁ……」

 助手席の同僚が、思わず声を上げた。澪もつられて視線を前へ向ける。隣のビルの地下駐車場から、一台の黒い高級車がゆっくりと姿を現した。

 艶やかなボディが、夕日を反射している。それは、智也が見せてくれた写真と同じ車種だった。

「あの車、すごいですね」

「何が?」

「最近、発売されたばかりの車なんですよ」

「そうなの?」

「ええ。うちの主人が欲しがってて」

 澪は何気なく車を見送る。運転席には若い女性が座っていた。サングラスを掛けていて、顔まではよく見えない。

 高級車は澪たちの前を横切るように右折し、流れるように走り去っていく。

 一瞬だけ、横顔が見えた。

「……え?」

 見覚えがあった。どこかで見たことのある顔――思い出そうとしたその瞬間、高級車は前を走る大型トラックの陰へ消えてしまう。

「あっ」

 同僚が思わず身を乗り出した。

「ナンバー、すごかったですね」

「ナンバー?」

「はい。"0002"でした」

 その数字を聞いて、澪の鼓動が大きく跳ねる。

 さっき、智也が見せた新車の写真。画面が閉じられる、ほんの一瞬だけ見えたナンバーが――0001。

 そして今、目の前を走り去った車は0002。

 偶然とは思えなかった。智也は言っていた。『最近は付き合いが多くて、新しい車を買った』と。

 けれど、あの女性は――。

(まさか……)

 大学時代の研究室。柔らかな笑顔。振込明細に書かれていた名前――白石琴葉。

 澪はハンドルを握る手に力を込めた。胸の奥が締めつけられる。さっきまで必死に否定していた思いが、少しずつ形になっていく。

 智也は、本当に白石琴葉のことが好きなのだ。あの新車も、きっと彼女のために――。

 その事実だけが、どうしようもなく胸を刺した。

 助手席の同僚は、そんな澪の異変に気づいていない。

「宮坂さん、大丈夫ですか?」

「……え?」

「信号、青ですよ」

「あ……ごめんなさい」

 慌ててアクセルを踏み込む。車はゆっくりと前へ進み始めた。街の明かりが、一つ、また一つと灯っていく。

 ぼんやりと滲む景色を見つめながら、澪は心の中で同じ言葉を繰り返していた。

 妻の私には中古車を。彼女には新車を――それが、智也の出した答えなのだと。

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  • 妻の100万円の願いは拒否、初恋相手には5000万円⁉ 離婚後の天才妻は御曹司に溺愛される   第四十二章 明らかになった代償

    *** 研究所でも、調査結果が共有された。 研究員の松本によるデータの持ち出しと、その情報が外部へ流れた経路。様々なルーツを辿って御子柴智也に渡り、入札で利用された数字との一致。 これまで積み重ねられてきた記録がつながり、情報漏洩事件の全容が、ようやく明らかになった。 澪は報告を聞き終えると、静かに資料を閉じた。そばにいた担当者は、安堵のため息を吐いてから口を開く。「これで、流出した情報の経路はすべて特定できたんですね」 「ええ。もちろん、再発防止のための対応は必要だけれど、今回の件については、ようやく全体像が見えたわ」 担当者の言葉に、澪は小さく頷いた。 長い調査だった。 自分の研究が不正に持ち出され、関係のない会社の入札にまで利用された。研究所の人間として、決して看過できることではなかった。 けれど調査を終えた今、澪の中に残っているのは、怒りだけではない。 自分が守るべきものは何か。 何を明らかにし、何を次につなげるべきなのか。 その答えを、改めて考える機会にもなった。「今回の件を踏まえて、データの管理体制を見直します。アクセス権限の再設定に加えて、外部への情報共有手順も変更する予定です」 「そうですね。大切なデータを扱う以上、同じことを繰り返さない仕組みが必要だと思います」 澪は、研究所の担当者と今後の対策について確認した。 特定の人間の注意だけに頼るのではなく、誰が扱っても、適切な手順を踏まなければ重要な情報を持ち出せないようにする。 今回の事件を、ただの失敗で終わらせないために。 それもまた、研究に携わる者として必要な仕事だった。 *** 数日後、智也は会社としての対応を進めていた。 情報の入手経路を確認し、入札における判断の経緯を整理する。関係者への聞き取りを行い、必要な説明と再発防止策を検討する。 会社を守るためにも、問題を曖昧にしたまま終わらせることはできなかった。 そして琴葉の関与についても、事実に基づいて整理する必要があった。「私は、智也さんに伝えていません。本当に、それだけなんです」 琴葉は、何度も同じ説明を繰り返した。「山下さんから頼まれただけで、情報が不正に持ち出されたなんて知りませんでした」 「お前が直接、情報を渡していないことは分かっている。俺は聞いていないからな」 智也は

  • 妻の100万円の願いは拒否、初恋相手には5000万円⁉ 離婚後の天才妻は御曹司に溺愛される   第四十一章 消せない記録2

    智也は、目の前の彼女を見た。 琴葉は、納得できないという顔で彼を見返している。「……智也さん。私のこと、信じてくれないんですか?」 その問いかけに、いつもの甘えるような響きはなかった。それは責めるような、追い詰められた声だった。 以前なら彼女の不安を取り除くために、何かしらの言葉をかけていたかもしれない。 大丈夫だと。お前を信じていると。 けれど、今はその言葉が出てこなかった。 信じるかどうかを決める前に、確認しなければならないことがある。それを怠った結果、会社は今、重大な問題に直面している。 そして自分は確かな根拠がないまま、琴葉の言葉を受け入れようとしていた。「信じる、信じないの話にするな。今は事実を確認している」 「……それって、私を疑っているということですよね?」 「疑うために調べているんじゃない。何があったのかを明らかにするためだ」 自分の口から出た言葉に、智也はまた澪の姿を思い出した。 彼女も同じように言っていた。 誰かを疑うためではなく、事実を明らかにするため。感情で決めつけず、確認できたことだけを積み重ねていく。 以前の澪なら智也が困っていれば、まず話を聞いてくれた。彼の立場を考え、どうすれば問題を解決できるか、一緒になって考えてくれた。 今は違う。 彼女は、必要以上に彼のために動かない。 自分の仕事と、会社が負うべき責任を切り分けていた。その距離が、今になって少しずつ理解できる気がした。「智也さん……私、本当に、こんなことになるとは思っていなかったんです」 琴葉の声が、少し弱くなった。「山下さんから言われた数字を伝えようとしただけで、会社に迷惑をかけるつもりなんてなかった。ただ、智也さんの役に立ちたかったんです」 役に立ちたかった。 その言葉を聞いても、智也の気持ちは動かなかった。 彼女が何を考えていたのかは、これから確認する必要がある。善意だったのか、打算があったのか、それとも別の事情があったのか。 今の段階では、どれも断定できない。 ただ一つ、はっきりしていることがあった。気持ちがどうであれ、結果は消えない。「琴葉、このメッセージの履歴は、絶対に消すな。山下とのやり取りも、今回の情報に関係する連絡も、すべて保存しておけ」 「……分かりました」 「会社の調査担当から連絡があったら、見せ

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